よろず屋ダイアリー

興味のあることについて書いていきたい

友だちはトラブルの元になり得るから、無理してでも欲しいとは思わない


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 僕がAとBと友人だったことは、ブログにも何度か書いてきた。今では彼らとは疎遠…いや、絶縁状態にあると言ってもいい。LINEグループを抜けただけでなく、連絡先も全て削除してしまっているからだ。Aとは上手くやってきたが、Bとはまるで気が合わなかった部分が多かった。

 

 

頑張っても絶対に分かり合えない人はいる

 Bは僕とは違い、いわゆるリア充系の人間で、インドア派の僕とは真逆どころか、性格も完全にソリが合わなかったのだ。Bと遊ぶときは必ずと言っていいほどAがいた。Bと2人だけで遊ぶという状況はほとんどなかった。

 

 Bは僕よりも基礎能力が高く、世渡り上手な人間だった。僕が何かしらの分野でBを上回ると、Bはすぐに機嫌を悪くしたり、舌打ちしたりしてくる。僕はそんなBが苦手だったので、地雷を踏まないように話す話題には気を付けていた。

 

 だけど、そんな無意味な気遣いが長く続くはずもなかった。気遣いと言っても、向こうはそれに気付いていないかもしれないし、僕が一方的に我慢しているだけだったと思う。最早気遣いですらない。Bといるのは精神的に疲れることが多かった。

 

 

Aの脳筋な説得が僕を苦しめた

 Aは、僕がBと分かり合えると心の底から思い込んでいる精神論者だ。「喧嘩するほど仲が良い!!」「今は分かり合えずとも、心から分かり合える日が来る!!」「ソリが合わないのは知ってる!だからこそお互い力を合わせるんだろ!!」「社会でやっていくには、Bとも関わっていかなきゃなぁ!!!」など、もう正直ウンザリである。

 

 僕はBとだけ離れたかったのだが、AはBにとってとても大切な人物である。Bと何か問題を起こしたときは、Aはいつも「ワイはBを信じとるんや。お前ワイと友だちなんやったら、ワイの信頼するBを信じるんが道理やないんか?」と僕を説得してくる。ときには脅されているのではと思い込んでしまったほどである。今Aがどうしているのかは不明だが、裏社会と精通する人物にでもなっているかもしれない(適当)。

 

 

僕を否定しまくったB

 いくらBが嫌だからと言っても、Bとだけ都合良く縁を切ってお終いという流れにはならない。Aの考えは老害染みてはいるが、説得しても無意味である。結局Bと縁を切りたければ、Aとも絶縁しなければならない。それが嫌なら、こちらを攻撃してくるBを上手く躱し続けるしかないのだ。

 

 Bが僕を攻撃するとき、よく自分の得意分野でマウントしてくる。正論を振りかざしたり、Aの共感を得ようとすることだってある。Bは僕より優れていないと気が済まない性格なのだと思う。例えば料理に関して言うと、「嘘つけ!!お前に作れるわけないだろ!!」とか「料理すんの???(笑)(笑)(笑)うわぁ(笑)(笑)、めっちゃ美味しそう(爆笑)」と常に僕をバカにしてきた。しかしBにも、僕より負けていてもいい分野の1つ2つはあるのかもしれない。

 

 普段は僕と仲良く振舞っているBだが、ちょっとしたきっかけで、すぐに僕を攻撃してくる。本人は遊び半分という可能性はある。しかし僕には、Bが本気で僕を攻撃しているようにしか感じなかった。

 

 

離れたくても離れられず…

 「とにかくこいつから離れたい」といつも思っていた。Aと遊んでいても、AはよくBとメールのやり取りをする。Aと遊ぶときは大抵は近所なので、突如Bが遊びに参入してくることも頻繁にあった。

 

 Bと僕と2人でいるときは、 Bは僕を攻撃してこない。いじめっ子が1人だと基本的に何もできないのと同じ理屈である。なるべくBとは会わないように努力はするものの、よくAと一緒に何の連絡もなしに家に凸してくるから、正直どうしようもない。家に来ないように言っても「ええじゃないかええじゃないか( ̄▽ ̄)」とグイグイ押し入ってくる。

 本来であれば、もうこの時点で縁を切るべきだったのかもしれない。しかし何を思ったのか、僕はそんなクソみたいな縁を続けてしまっていた。

 

よく他人を批判する人間は、自分自身も否定するというが、Bの僕に対する異常な攻撃性を考慮すると、Bもそうなのかもしれない。というかそうであって欲しい。

 

 

友だちはいらないけど、特に馴れ合わないで済む仲間は欲しい

 Aとも縁を切ったが、それで正解なのだと思う。次にあの2人に会うときは完全に敵対するだろう。もしかすると警察沙汰にもなり得る。友人と関わってて、少しでもおかしいなと思う部分があるなら、即座に縁を切るのもアリだと思う。大抵は面倒事に巻き込まれてしまうからだ。少なくとも僕みたいに「頑張ればBとも分かり合えるんだ!!」とか「Aを信じ切ってやるんだ!」という考えをしていると自身が病んでしまう。

 

 最悪友だちなんていなくても全然OKだと思う。僕はそんな友だちとやらのせいで今まで痛い目に遭ってきたのだから。少なくとも無理してまで作るのだったら、むしろ孤独を貫いた方が僕は良いと思う。結局友だちなんか大して頼りにならないし、仮になったとしても負担を背負わせてしまうし、背負わせたら背負わせたで見返りを求められるし…(無限ループ)

 

 

 やっぱり友だちとかいらん(キッパリ)。趣味とか考えが共感できる仲間程度で僕は充分である。

パズル操作が下手で詰んだパズドラのお話


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〈出典:http://blog.bot.vc/2013/05/puyo/

 

 かつて僕はパズドラをやっていた。ソシャゲの中でもかなり有名であり、アニメ化もされたぐらいである。

 

 僕は2年ほどこのゲームをしていた。無課金ながらも、それなりにガチャには恵まれたので、目当てのモンスターが揃うのは早かった。序盤はサポートの力を借りることができたので、パズル操作ができなくても先に進むことができた。

 しかしこのゲームを攻略していく上で、僕にとってパズル操作は避けられない大きな壁となった。1度でもパズルの操作を誤ると敵から猛攻撃を受けて、あっという間にゲームオーバーになってしまうのだ。

 

 運営から配布されるアイテムの1つである魔法石を使うと、ガチャやスタミナ回復、さらにはコンティニューすることもできるのだ。しかしパズル操作が苦手な僕の場合、3~4個以上消費しなければ先に進むことができない。なので終盤になった途端、ゲームの進行は全て石次第ということになってしまった。

 

 

経験値稼ぎは楽しみの1つだが、目的ではない

 ダンジョン攻略以外にも、モンスターの育成やお金稼ぎなど、楽しめる要素はたくさんある。しかしそれらは全て本編をクリアするための行為であって、目的ではないのだ。いつの間にかそれらが目的になってしまった僕は、このゲームをプレイする本来の目的を見失ったような気がした。いつの日かログインすらしなくなり、スマホを買い換えるタイミングでアンインストール。それから1度も起動していない。

 

 お気に入りは回復パ。いわゆる可愛い系のメンバーだった。その中で特にヴァルキリーとリリスが可愛かった。回復パではないが、ハクとサクヤも良かった。ポケモンみたいに、モンスターを進化させるとグラフィックが変わる。しかし中には、進化前のグラフィックの方が良かったものもあるので、その機能は僕にとっては苦手だった。 

 

 

魔法石が全てだと思った時点でモチベが著しくダウンした

 クリアが難しくなってからは惰性に続けていたが、魔法石の使用をメインに攻略を進めるという、ある意味では一緒に戦うパーティの戦力を全否定する行為をしばらく続けていた。ゲームをするときは誰しもがコンティニューなどしたくはないと思うのは当然である。

 

 パズル操作も、何度やっても上達する見込みがほとんどなかった(それでも始めた頃よりマシにはなった)。

 

 コンティニューするときは魔法石1つで行える。敵のHPを削り切れない場合や、再度スキルを使えば確実に勝利できるという状況において使うべきである。モンスターも強いに越したことはない。だがしかし、敵がどう動いてくるかとか、攻撃手段であるパズル配置や、与・被ダメージの数値、サポート依存など、いかにモンスターが優秀であったとしても、どうにもならない問題というのは起こるものだ。

 

 別に僕は魔法石を無駄遣いしたいわけではない。それなりにモンスターも育成したし、事前に情報も仕入れてきた。お気に入りのモンスター、チームで勝つみたいな縛りプレイは一切していない。文字通り普通にプレイしていた。

 

 チーム編成を間違えたときや、敵勢力の強さが歴然で、どうあがいても勝てないなと思ったときは、コンティニューで強引に突破しようなどとは考えない(かつてレア素材モンスター相手にムキになったことはある)。スタミナも少々もったいないかもだが、流石に撤退する。

 

 

普通に戦って明らかに勝てないなと思った時点でもう引退すべき

 やってて楽しかったものの、パズドラもまたソシャゲということで、どれだけやり込んでも結局のところ終わりがない。僕の場合はどれだけモンスターが強くても、パズル操作がヘタクソだったので先に進めなくなった。モチベーション低下によって、すんなりゲームからリタイアすることができた。

 

 ソシャゲ依存症みたいな感じになってる人も多いと思う。ゲームをするのは確かに楽しいとは思うが、時間だけでなくスマホの寿命も奪ってしまう。ソシャゲを止めたいと思っている人は、まず適当にゲームのログインだけを済ませてその日を終える。その作業を繰り返していくうちに、ログインすら面倒臭くなるはずだ。そうなったらほぼ勝ちゲーである。運営からログインボーナスが貰えなくなるというだけで、ゲームに対するモチベーションは著しく低下する。そうなったらもう勝ちゲーである。

 

 上記の方法で僕はリタイアしたわけだが、そもそもパズル操作に難があったのが根本的な理由なのかもしれない。ゲームは楽しかったし、ちょうど良いタイミングで止められたと思っている。課金する人は単に見栄を張りたいだけだと思う。もっと健全な方法を模索すればいいだろうσ(・・ ̄ ) ホジホジ

絵描きの趣味もぶん投げた


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 英語以外に、僕は漫画を元友人のAと描く趣味があった。

 

 漫画の方だが、Aがシナリオを構成して、僕が絵の方を仕上げるというかたちだった。Aの助力ありだが、僕がシナリオを書くこともあった。Aがストーリーで、僕がイラストという役割分担は完璧だったと言っていい。

 

 中高生くらいのときから取り組み始めたが、2年近く続いたのは、今でも驚きである。Aが僕のペースに合わせているというわけでもなく、僕がAに合わせているわけでもなかった。このときはお互い完全に意気投合していたのだ。

 

 僕の描いた絵の方だが、残念ながら全て破棄してしまった。別に公表するほどでもなかったし、Aとはもう会ってすらいない。

 

 

漫画・イラストもまた「やりたいこと」ではなかった

 ここまで読んでくれた方の中で、英語以外にも「やりたいこと」あるじゃんと思われた人もいるだろう。別に僕は絵を描くことも、シナリオを構成するのも大して興味はない。アニメや漫画を嗜んでいるときに、せいぜい頭の中でボンヤリと何かが浮かぶ程度のもので、それを形にしたいとまでは思っていない。漫画・イラストを描いておきながら、そこまでする能力は去ることながら、労力すらもなかった。決して描けないこともなかったが、二次創作系を描くと、オリジナルを否定している感じがしてやはり気が乗らなかった。

 

 英語のときと同じだが、漫画を描くことが楽しかったわけではなく、ただ他人と意気投合したかっただけだ。漫画家になりたいわけでも、イラストレーターになりたいわけでもなかった。取り組む対象は漫画ではなく、ゲームでも何でもOKだったのだ。

  

 

 興味がないと早く気付きたかった…

 英検まで取得した英語にほとんど関心が持てなかったくらいなのだ。ならば周りに実績を証明することが難しい漫画・イラストなんて尚更である。僕とAは、描いた漫画を編集者のところに持ち込んだことがないばかりか、当時は同人誌即売会にも参加したことすらなかったのだ。

 

 いわゆる「おままごと」であり、技術的にはほぼ何も身に付いてなどいなかった。Aとそんな共同作業していたときは確かに楽しかったものの、ワンランク上に行こうという気はほとんどしなかった。

 

 もしかするとAに期待していたのかもしれない。Aなら無気力な僕を叱咤激励してくれるとか、投稿や同人誌即売会の申込みも済ませてくれると勝手に思っていたぐらいだ。当然ながらそんな都合の良い話なんかなく、僕らにとって漫画は、遊び以外の何物でもなかった。それでも後悔はしていない。

 

 今では1人でコミトレにも参加するなど、フットワークは飛躍的に軽くはなったものの、それをAと漫画を描いていた頃にしていれば、今とは違う結末だったのかもしれない。

 

 

半端だったが、別に全てが無駄だったとまでは思っていない

 Aと離れてからも、惰性で1人で続けてきたものの、段々面倒臭いものと感じるようになった。そしてついに漫画を描くのに使っていた画材や、漫画やイラストが描かれた自由帳や原稿用紙を全て破棄した。

 それから随分と時間が経って分かったことだが、別に何とも思わなかった。むしろ変に固執していたくらいだから、その執着心が消えてくれてスッキリしたくらいだ。

 

 そして他にも分かった…というか、悟ったことだが、自分にはこの先「やりたいこと」とやらを見つけられる可能性はない。せいぜい「やってもいいこと」くらいしかないなと達観している。英語に次いでほとんど無駄に終わったが、その無駄を2つも知れてむしろ清々した。やらないままだったらずっとモヤモヤしていただろう。無駄だったが、ある意味健康面では無駄ではなかったのだ。そんなストレスを軽減できて本当に良かったと思う。

 

 

 「やりたいこと」がなければ何物にも期待せず、平常心を保っておく

 ほとんどの人が僕と同じように、「やってもいいこと」を延々とこなして生きていくしかないのだろう。だからこそ、その「やってもいいこと」に過度な期待をするべきではないし、ましてや無理にそれを「やりたいこと」に変換させる必要もないと思っている。決して必死になったりせず、淡々とやっていくしかない。

 

まとめ

・元友人Aがシナリオ、絵は僕が担当するかたちで2人で漫画を描いていた。

・漫画は別にやりたいことではなく、ただの遊び感覚で取り組んでいた。そこから発展して夢に…なんて都合の良い話はない。

・行動力がなかったので、本当にただの遊びで終わった。

・漫画の画材等を全て破棄するも、特に心残りはナッシング。

・英語も漫画も両者とも、それなりに取り組んで無駄だと分かったので、心のモヤモヤが解消されたという意味では無駄ではなかった。

・結局「やりたいこと」なんてそう簡単に見つかるはずがなく、「やってもいいこと」で我慢しなきゃいけない人間が多い。けど「やってもいいこと」を「やりたいこと」に必ず当てはめる必要はない。

 

 前回の記事と同じというか、続きものみたいな感じになってしまった。漫画を描く道具は全て破棄したが、別にそれが漫画・イラストを否定したとは思っていない。これからの人生で必要なくなっただけであり、遊ばなくなったおもちゃを廃棄したのと同じ行為と捉えている。

 

 ある意味では英語以上に、中途半端な継続がいかに時間や労力の浪費になるか体験することができた。いわゆるエッセンシャル思考取得のきっかけにもなった(気がする)。

「やってもいいこと」と「やりたいこと」は根本的に違う


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 「やってもいいこと」と「やりたいこと」を履き違える人って結構多いと思う。

 

 学生時代のときから将来やりたいことを求められる。しかし大抵の場合、やりたいことと言われても何も思い付かない。思い付くには思い付くが、明らかに現実離れした内容のもの(世界征服、完全犯罪等)が多い。

 

 通学ぐらいしかすることのない、ほとんどの学生たちがやりたいことを求められても正直答えようがない。なので「将来これだったらやってもいいかな?」と思えるものを、「やりたいこと」として無理やり認識させられてしまうことになる。

 「やりたいこと」をする学生なんてクラスに1人でもいたらレアケースだと思う。かつて僕のクラスにもいたが、全身全霊で夢に向かって努力していた。その子は「やりたいこと」を「やってもいいこと」と履き違えていなかった。 

 

 結局やりたいことなんて見当たらないから、仕方なくやってもいいと思えることを主張する。そうすると教師は、「やってもいいこと」=「やりたいこと」として話を進み始める。何勘違いしているんだこのクソ教師と心の底から思っていた。

 

 

「やってもいいこと」と「やりたいこと」の意味の違い

「やってもいいこと」と「やりたいこと」というのは、明らかに意味が異なる。例えば、駅で電車を待っていたとき、その電車が10分遅延するとしよう。

 

 「そうか、遅延かぁ(T^T)10分だったら待ってもいいかな?」

 「私は10分間待ちたいんです!」

 

 見ての通り、圧倒的に意味が違うだろう。「黙認」と「無視」もまた然りである。何故か僕たちは、この「やってもいいこと」を世間が無責任に主張する「やりたいこと」として貫かなければならない。あまりに理不尽すぎる話だ。

 

 

教師は生徒に「やりたいこと」を押し付けすぎる

 教師というのは、もうそれ自体が「やりたいこと」の1つである。それを実現できた多くの人が、生徒に対して熱血的になる(自分ができたんだからお前もできる的な)。そういう人たちが、やりたいことが何もない人間の気持ちを理解するのは到底不可能である。

 

 結局のところ、「やってもいいこと」というのは、「やりたいこと」として曲解されてしまう。

 

 

僕の英語は別に「やりたいこと」ではなかった

 僕の英語の場合は、確かに「やりたいこと」ではあったものの、通訳とか翻訳家になりたいわけでもなかった。読み書きのみだったが、それなりに適正があったから伸ばしたいと思ったのと、それを周りに誇示したかったというのが理由である。

 別に外国人とおしゃべりを楽しみたいとか、外国の文化を知りたいとか思っていたわけではない。他に特技がなかったから、中途半端に英語に執着していただけである。

 

 

「やってもいいこと」と「やりたいこと」をごっちゃにするな

 本当に 「やりたいこと」をしている人間は、明確な将来像を持っていたりする。一方で僕を含めた「やってもいいこと」をしている人間には、残念ながら何もありはしないのだ。

 だが別にそれでもいいと僕は思っている。「やってもいいこと」を「やりたいこと」として誤認させられる方が最悪だ。それだと僕がかつて英語に執着したのと同じように、自分を見失うだけである。

 

 まず「やりたいこと」がない自分を受け入れることが大事である。そうすれば自ずと期待するものがなくなっていく。

 

 

「やりたいこと」はいわば1つの執着心の表れでもある

 本当に「やりたいこと」をして、失敗したときはかなり落ち込む。しかしやらなかった後悔よりも、やった後悔の方が、プラスマイナスに関わらずいっそのこと清々しいだろう。

 「やってもいいこと」なら、そもそも最初からそれに期待なんてしない。失敗しても「まぁこの程度かぁ(´・ω・`)」とそれなりに楽観視できる。逆に少しでも期待すると「自分はこんなこともできないのか」と悲観してしまうだろう。

 

 あまりに適当すぎるのは駄目だが、自分でもそれなりにやっているという自覚があるならそれでいいと思う(それでも「誠意がない」とか「やる気がない」と怒鳴る人もいるだろうが、スルースキルで乗り切りたい)。

 

 大半の人は、「やってもいいこと」を「やりたいこと」にしようと躍起になっているんだと思う。そういう状況下でも頑張れる人はいるが、全員がそうというわけでもない。無理だったとしても、そんな自分を責める行為だけでも止めておくべきだと思う。僕もそうだが、「やりたいこと」はあった方が得なのは明らかだ。むしろ命を懸けたり必死になったりしなくて済むのなら、別になくても構わない。

 

 

まとめ

・周りの圧力のせいで、「やりたいこと」と「やってもいいこと」をごっちゃに考える人が多いと思う。

・大半の教師は、「やりたいこと」とやらをすでに実現している。それ自体が夢だからだ。そんな人たちが「やりたいこと」のない人の気持ちを理解するのは不可能。

・僕の英語は、ただ周りに自分の能力を誇示したいだけのもの。それができるのなら、数学だろうが体育でも構わない。必ずしも英語である必要性はない。

・「やりたいこと」と「やってもいいこと」はまるで異なるので、その部分を誤認している人は要注意。

・「やりたいこと」がない方が、物事の執着心をなくせたりできるので、むしろ楽なのではないだろうか。

 

 

 いくらなんでも「やりたいこと」「やりたいこと」と世間は騒がしすぎる。「やりたいこと」とやらがない人がそんなに醜いか?むしろ「やってもいいこと」と「やりたいこと」をごちゃまぜにする方が僕にとって「やりたくないこと」だ。

 あと夢という幻想に付け込んで、過重労働を課してくる人たちに仕えることこそ、誰にとっても「やりたくないこと」だろ。

ある意味ではスマホに匹敵してるR4



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 ニンテンドーDSで遊んでいた頃、マジコンと呼ばれるソフトの存在を知った。当時は聞きかじり程度の知識だったが、

 

①タダでDSのゲームができる

②形はDSカートリッジと同じで、microSDカードを挿入する部分がある

③MP3も再生できるので、音楽プレイヤーにもなる

④価格は5000~6000円程度で中国製

 

 というものだった。

 

 

 うん、完全に違法である。

 

 ①のタダでゲームができるというのは、サイトからゲームのROMデータをダウンロードし、そのデータをmicroSDに入れてマジコンで起動させるという仕組みだ。
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 違法だと言われているのは主にサイトからゲームのデータを落とすという部分にある。違法ではあるが、第三者(そのゲームの製作会社やその関係者)に直接訴えられでもしない限り、別に罰則などもありはしないだろう(僕の適当な憶測なのでアテにしないように)。ただ、ネットを通じてROMデータを配信する行為は確実な犯罪である。

 

 microSDに取り込んだDSゲームの容量は、1つにつき平均64MBである。最小が8MBで、最大が128MB(256MBという噂も聞いたことがあるがよく知らないため128MBを最大とする)。

 主にRPGのように、アイテムや隠し要素の多いゲームが128MBの傾向がある。「すばらしきこのせかい」や、「星のカービィ ウルトラスーパーデラックス」がそれに当たる。

 

すばらしきこのせかい

すばらしきこのせかい

 

 

 

星のカービィ ウルトラスーパーデラックス

星のカービィ ウルトラスーパーデラックス

 

 どちらも友人から借りてプレイしたことがある。ワイヤレス通信による対戦をして遊んでいた時代が懐かしいものだ。

 

 

 

 ③については少し思うところがある。今までのゲーム機というのは、ゲームをすることだけに特化しているため、機械としての寿命も相応に長かった。しかし最近のゲーム機は、インターネット接続はもちろん、音楽やテレビといった娯楽も同時に楽しめるようになっている。その代わり、バッテリーの寿命は2~3年程度にまでなっている。それらの機能を有しており、持ち運びも容易な機械こそがスマホだと思っている。

 

 そしてマジコンのこうした機能こそが、何でもできるスマホの先駆けみたいなものになった。違法スレスレな機器だが、ゲームソフトを起動させるしか能がなかったニンテンドーDSを、音楽プレイヤーやエミュレーター(主にFC&SFC)、さらには動画再生機にも仕立て上げたのはかなりの業績だと思う。

 

 ニンテンドーDSi以降の機種にはマジコンは対応していないため、起動させることができない。

 しかし任天堂が対策したのは、あくまでマジコンを起動させないという部分だけなので、オリジナルであれマジコンであれ、お互いに通信対戦することはできる。

 

 ソフト1本で5000~6000円もする。人によっては、違法スレスレな状況になってもゲームを楽しむべく、マジコンに大量のゲームを入れたりもする。きっと彼(彼女)らからすれば、1本のソフトにつき5000円も払うのはバカバカしいのかもしれない。それ以前にその大量のゲームを全てプレイできるかである。僕だったらプレイする時間も体力もないので絶対にできないが。

 

 今の時代はソシャゲで溢れ返っているため、事実上タダでゲームができるのだが、当時はゲームをするにもそれなりにお金が必要だった。なのでマジコンを使って、法に触れないか常にビクビクしながらゲームをするなんてむしろバカだと思う。

 

 

ちなみに

 R4は僕が中高生の頃の友人から教わったものだ。タダでゲームができるという話を聞いたときは「マジか!」とは思ったものの、いざマジコンを借りてゲームをやってみたものの、総体的に見ると普通にソフトを買って、速攻で全クリして売却すれば済む話だなと思った。

 

 そもそもマジコンを起動させるには、ネットから専用のツールをダウンロードしないといけなかったりする。簡単そうではあったが、面倒臭いなと思った。

 

 僕はマジコンのゲーム関連よりも、むしろ音楽プレイヤー機能に大きく惹かれた。普段はソフトに入ったゲームのBGMしか垂れ流せないニンテンドーDSが、MP3のみだが再生させられるというのは実に感慨深いものである。


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〈出典:

http://r4dsmanual.web.fc2.com/music.html

 

 

 音質も別に悪くなかった。マジコンという非公式のソフトでありながら、よくここまで再現できたなと感動しているぐらいだ。

 

 今ではもうほぼ手に入らないものだが、別に今となってはスマホがあればどうとでもなる。別になかったらなかったでどうでもいい。

管理できないなら物なんて捨てればいい


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 この前スーパーに行ったときのことだ。電池を買おうと思い、電池売り場を覗いた。その売り場の広告に「台風対策!」という文字を見かけた。

 

 一見するとただの広告だが、そのとき僕は「なんか、無理に買わせようとしてるなぁ…」と思ったりした。

 売る側からすれば当たり前の話ではある。しかしそのときの僕にはどこか、感に触るところがあった。台風対策と書かれた広告は、その電池売り場にしかなかったのである。

 

 

電池売り場のみに設置された「台風対策」の広告

 台風による被害といえば、大雨による床下浸水や雨漏り、強風によって屋根が飛ばされたり、場合によっては停電したりもするだろう。確かにそういうときに備えて、懐中電灯や避難するために衣類や食料も必要になる。

 つまりその台風対策という広告が、電池売り場にだけあるのは少し違和感があるように思うのだ。

 

 とは言っても、全ての売り場に台風対策の広告を設置するのもおかしな話である。電池売り場のみにその広告を配置するのは、災害時において、一番に優先されるものがやはり電気という理由だからなのだろうか。

 

 

買い溜めしても忘れたら全部パー

 台風のような災害時に備えて、物を貯蔵しておくのは大事である。しかしいざそのときになると、多くの人は余裕をなくしてしまうのだ。年寄りの方ならより一層パニックに陥ってしまうだろう。果たしてそんな状況で、倉庫の奥にでも貯蔵した物を簡単に取り出すことができるだろうか。おそらくはできないだろう。

 

 年を取ると頭がボケて、管理能力もまた衰える。物が多すぎると、どこに何を収納したのかなかなか思い出せなくなる。災害に備えて購入した物までも、被災後だと余裕をなくしてしまうために、そもそも購入したという事実を忘れる。覚えていたとしても、倉庫の奥の奥にでも収納されていては、取り出す余裕までもなくす。なのでその物がフルに活かされるということはないだろう。にも関わらずあの年代の人たちは、自らの管理能力の衰えを全く認識しない。買いまくっては貯蔵し、いざと言うとき、その買ったものを忘れるというもったいない連鎖を繰り返す。

 

 

昔の心の傷によるところが大きい

 とは言っても無理のない話である。今の年配方の世代というのは、僕たちの世代とは違って戦争というものを経験している。

 つまりはみんな貧しくて物が手に入らなかったという状況が長く続いたということである。物を貯蔵するのが当たり前の時代を経験してきた彼(彼女)らが、物にありふれた今の時代に追い付けないのももっともな話である。ただほんの一時的に物がありふれているだけなんだという認識なのかもしれない。なのでまたいつ物が枯渇するか分からないという心境なのだろう(まぁいつかは枯渇する日は来るだろうが、思い悩むだけムダである)。

 

 しかし「台風対策!」のとても小さな広告に踊らされるというのは些か滑稽である。衝動買いした乾電池で懐中電灯を照らしたところで一体何になるというのか。そもそもそれ以前に災害が来る日まで、店で買った電池を覚えていられるのだろうか。

 

 

管理できる範囲で買い物しよう

 たかだか広告一つでここまで文章書くかって話ではあるが、ただあの広告を見て、頭の中で思い浮かんだ考えを記事にしただけである。

 世の中には不要だと思う物が多すぎるのはおそらく共通認識だろう。その不要なものを、広告等で煽りに煽って消費者に買わせようとする。管理能力なんてお構いなしに物を貯蔵する年寄りなんて、販売する側にとって格好の的でしかない。

 

 

まとめ

・電池売り場にだけ「台風対策!」の広告を見かけ、何だかなぁと思った

・自らの管理能力を把握せず、無鉄砲に物を貯蔵する年寄り

・戦争時代を経験した彼(彼女)らは、今の物がありふれた時代に追い付けていない

・要らないもので溢れ返っている現代

 

 ちなみに僕が物を買うとき、あらかじめ捨てる物を用意しておく。元々新しい物を買うのに抵抗を感じるので、古い物をどうにかすれれば大抵上手くいく。

得意なこと=好きなこととは限らない

 僕は生まれつき他のものにほとんど関心を持つことができない。要するに心からやりたいと思えることが何もないのだ。

 

 

唯一それに近かったのは英語かもしれない

 中学から始まった英語はそれなりに継続した。成績も人一倍高く英検も取得するなど、普通に得意分野と呼べるものであったが、リスニングやスピーキングがからっきし駄目だった。

 好きだと思えることの中にも当然、苦手な部分というのはある。しかし本当に好きだったら、その苦手な分野も克服しようと思うはずである。しかし僕はそれらを無視し、ひたすらライティングとリーディングに時間を割いていた。

 

 つまり英語なんて本来どうでもよく、得意なことを延々とやっていただけなのだ。高い成績も相まってか、周りからはただ英語ができるヤツとしか見られていなかった。そのせいで、誰も僕のやっていることを咎めてくれる人はいなかった。人にあれこれ指図されるのは嫌だが、このときだけは誰かに声を掛けて欲しかったと思う。

 

 自分だけの特技を持つということが、何より僕には重要だったのだ。しかし結局そんなものは何一つなかったのだ。むしろそんなことに固執していたからこそ、自分を見失っていたのかもしれない。僕は英語の一部の分野はできるが、それ以外は実は嫌いだったのである。そしてその嫌い分野も、他の分野を極めれば補えるという幻想に囚われていた。

 

 結局、リーディングもライティングも能力値の限界を知った。英語を極めるなら、日本語も同様に極めなければならない。当たり前の話だ。僕にはそれができなかった。それでも努力すれば伸ばすこと自体はできたかもしれない。でもそこまでして伸ばそうとは思わなかった。それ以前に、英語に対する意欲の程を知るべきだったのだ。得意なことと好きなことを履き違えていたために、意味のないことをしてしまっていた。得意=好きではないという当たり前にもっと早く気付きたかった。

 

 

関心があるようで、実は全く関心がなかったという事実

 前の記事でも書いた通り、英語関連の教科書を破棄しても何も思わなかった。元々は貰い物で、どれも勉強し尽くしたものばかりだったというのが主な理由である。

 

 学生の本分は勉強だ。それは否定しないし、重要なことだと思っている。ただ勉強するにしても、僕みたいな勉強の仕方をすると破滅の道へ一直線だ。僕の手法を選択するくらいなら、堂々と遊びまくった方が遥かにマシである。僕の場合は、英語のライティングとリーディングだけがこなせる状態=英語ができると勘違いしたために起こった悲劇なのである。

 

 体力を消耗させるだけの結果となり、僕の勉強嫌いにさらに拍車がかかった。勉強は学生の本分という言葉に見事に踊らされ、やらなくてもいいことを延々と頑張ってしまった。やっぱり勉強が重要だと言っても、それに追い込まれて精神を病めば本末転倒である。

 

 「勉強?そうだな、やっておきましょか♪」ぐらいに構えておけば良かったものの、「…ねば…やらねばやらねば…!!」と自分を追い込みすぎてしまったのだ。

 

 

別に英語である必要性はなかった

 散々な目に遭ってしまったが、少なくとも英語に関しては全く関心がなかったわけじゃない。いや、そもそも他のものに関心がなさすぎるだけなのかもしれない。

 英語は書くことに関してはそれなりにできるが、話したり聴いたりするとなると話は別だ。そもそも僕は外国人と会話を楽しんだり、友だちになりたいとは微塵も思っていない。外国人なんて所詮「OH!YEAH~!!WE ARE FRIENDS!!!HAHAHA~!!!(肩を一方的に組まれて)」みたいなノリだから苦手である(偏見)。

 

 だったら翻訳家にでもなりたいのかと言われれば別にそういうわけでもない。ただ周りに自分の能力を誇示したかっただけなのだ。たまたま英語ができたことから、それを使っただけの話である。そのきっかけを通じて英語が好きに…なんて都合の良い話なんてあるわけもない。

 

 

 限られた分野だけだが勉強したことについては特に後悔していない。ただ、それに固執し続けたことを悔やんでいるのだ。

 

 

全く手付かずではなかったリスニング&スピーキング

 リスニングとスピーキングだが、全く手を付けなかったわけではない。リスニングに関しては基礎英語3やラジオ英会話をトータルで1年以上は続けた。

 基礎英語はまだしも、ラジオ英会話はどれだけ予習したり、複数回聴いても全く身に付かないばかりか、それ以前に関心すら持てなかった。

NHKラジオ ラジオ英会話 2017年11月号 [雑誌] (NHKテキスト)
 

 スピーキングだが、そもそも周りに英語を話す外国人がおらず(中国人ならその辺にいるが)、仮に話す機会があっても、頭の中で単語が思い浮かばない。それ以前に僕は人と話すのが好きではないし、ただでさえ話すだけでも大変な外国人相手にそこまで労力を割きたくないというのが本音だ。

 

  

 

まとめ

 記事にしてみて分かった。客観的に見ても、英語に興味がないのは明らかだった。にも関わらず僕は、偏った努力だけで得意なものを好きなものに変換しようとしていた。実にアホなことに時間を割いてた自分が憎い。

 

 せいぜい英検やTOEIC以外に英語をやる目的なんて見当たらない。どれだけ自分にとって自信のある能力でも、それを好きになれるかどうか、将来的にそれを活かしたいと思うかどうかは別次元の問題だ。

 

 人類が夢だのやりたいことだの言い始めたのはここ最近の話だ。石器時代にサラリーマンになりたいとか、漫画家になりたいなんて言った人がいるかって話だ。

 人間も他の動物と同じく、狩りして食って寝ての生活がスタンダードだった。やりたいことや好きなことはもちろんあるに越したことはない。しかしだからと言って、自分の得意なことを無理やり好きなことに結び付けるのは止めて欲しい。

 

 

 久しぶりに個人的には長く書くことができた。ブロガーと呼ばれている人たちは、この程度の文字数は朝飯前で、内容も遥かに読者を惹き付けるものなのだろう(嫉妬)。

 

 前に書いた記事を元にしていても、書き方を少し変えるかするだけで、読者への伝わり方も大きく変わる。なんだか結構面白い。

 

 よろず屋ダイアリーでした。