よろず屋ダイアリー

興味のあることについて書いていきたい

私が方向音痴なのはどう考えてもお前らが悪い


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 行きたい場所について調べるとき、駅から徒歩1~2分といった目安を見たことがあるだろう。

 その場所の最寄り駅が分かっても、そこからどのくらい離れているのか分からなければ意味がないし、目印となるものもなければかなり厳しい。だからこそそういった目安は非常に役に立つし、誰にとっても必要不可欠な情報だ。

 

 しかし駅からすぐの場所と言われても、駅によっては出口がたくさんある。それでも親切に「〇〇駅××番出口」と案内があれば上出来だが、最寄り駅Onlyの場合も少なからずある。出口が複数あるにも関わらず、駅名のみというそんな大雑把な説明は誰も求めていない。むしろ無駄に歩かせて体力を浪費させうる害悪な情報源と言っても過言ではない。わざわざネットで一つ一つ調べなきゃならんのは勘弁だ。

 

行きは丁寧に説明しているが、帰りについてはスルーしている旅行本

 他にも観光地への行き方だけを掲載し、帰り方について知らんぷりする旅行本が数多く蔓延っている。

 

 電車ならまだ構わない。だがタクシーやバスとなると、行きはどうにかなったとしても帰りが不安になる。帰りも行きと同じような要領でいけば良いのだろうか、それとも「行きは教える。帰りは知らん。無理だったらそこで死ね。」というスタンスなのか。

 

 タクシーだとチャーターでもしない限り、目的地に着いた瞬間、その場所に取り残されるだけだろう。

 バスに関しても、帰りのバス停がどこにあるのか分からなければ、タクシーのときと同じだ。それに観光地で運良くバス停が見つかったとしても、時刻表が分からなければ予定が狂うのも目に見えている。

 

 

 やはりと言うべきか、目的地の行き方について書いている側は、帰りなんて当たり前のようにこなせるのだろう。行きが大丈夫だったから、帰りも特に問題なしなんてありえるはずがない。

 

 一体何のための旅行本なんだろうか。行き帰りができてこその観光旅行なのだが、「帰り?そんなの知らん( ̄σ・ ̄)あとは勝手にしろカスw」の本やサイトばかりが陳列している。

 

 前述したが、タクシーだとチャーターが前提だったりするし、バスにしても、行きの時刻表と帰りの時刻表が必ずしも同じとは限らない。むしろバスだといろんな路線が入り乱れている可能性だってあるのだ。それを「△△番線のバスに乗れば行けるよー(´-ω-`)」 だけだと、万が一トラブルが起こったときに何も対処ができない。中途半端な情報なら初めから発信しないで頂きたいものだ。

 

 

そんなのはお前が方向音痴なのが悪い…だと?

 確かにそうだろうと思う。僕は旅行に行ったときはよく道に迷う。たとえ徒歩ですぐの場所でさえ、ひどいときには10分以上掛かってしまう。見知らぬ土地に来たら、とにかくスマホで写真を撮る。迷ったときの保険はバッチリ取っておくのだ。普通の人だと絶対にここまでやらないが、 僕の場合は例外だ。

 

 

要約

・駅から徒歩ですぐの場所でも、目印となるものがなければ何も分からない。

・旅行本は観光地の行き方しか書いてないからクソ。帰り方も知ってこそ、安心して旅行に行けるはずなのに、みんな帰り方だけはそれぞれ自分たちの力で見出したい情熱集団(アホか)。

・よろず屋ダイアリーは方向音痴で、それを周りのせいにしてる屑。

 

 また間が空いてしまったが、ネタが思いついたときはすぐに更新するので、今後ともよろしくお願いします。

心配する=信用してないということ


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 人を心配するのはどんなときなのか。病み上がりの人に対して「お…お前、大丈夫なのか!?」「無理しない方が良いんじゃない?」と言うと、一見するとその相手を気遣っているように見える。しかしそれは、相手の体調を信用していないと言っているようにも聞こえてしまう。

 

 他にも、「あなたの成績じゃ心配よ…。もっと志望校のレベルを下げたら?」とか「えぇ!!お前がそれやんの!?何だかなぁ…!」など、心配するというのはつまり、「あなたのことを信用していません!」と言っているにほとんど等しい。

 

 言った側にその自覚はない。言われている側だが、気にしない人もいるだろう。僕は昔から人からそんな心配をされる度に、「あぁ、この人も僕を信用していないのか…。」と無意識ながら思っていた。

 

 

誰もが自分の見栄えを気にし、「心配」という言葉で相手の自尊心を奪う

 ダイレクトに信用していませんと言えば済む話なのに、「心配」という言葉のオブラートを使っている。いかにもあなたのことを思っているのよという、言った側の立場を少しでも良くしようというオーラがある。それが誤解を生むことだって当然ある。言われた側が、言った側が自分のことを考えてくれているという誤解を。その誤解のせいで、知らず知らずに自尊心を奪われ、相手に洗脳されてしまうのだ。

 

 例えば「バカ」を「少し経験が不足しているだけ」と表現するのと同じで、言い方を綺麗にしたところで本質は何も変わらない。言った側は言葉を変えているだけで、その相手に負の烙印を押している。

 

 

信用していないとかいちいちマイナスの言葉を掛けてこないで欲しいんだがな…

 心配されるくらいなら放って置いて欲しい。むしろその方が力も発揮できるし、他人のほとんど余計な情報に振り回されなくて済むのだから。必要だと思う情報は自らの手で掴みたい。

 それでも無理ならまだ納得できる。でも人からあーだこーだ言われると、それだけで労力を消費する。しかも相手は100%気付かない。

 

 言われた側の能力にも非がないわけではない。僕の場合はあったが、だからと言って信用していないと責め続けられなければならないのだろうか。これだと正論を武器にする人と同じ発想だ。

 

 能力がないから信用しない。赤の他人同士ならまだ分かる。しかし身内でそれをされると流石にキツい。四方の壁に行く手を阻まれる感覚だ。

 

 

お前の成功はオレのもの。お前の失敗はお前のもの。

 それでいて、信用していないと言った側の主張がこれだ。「心配しているとは言ったが、実力行使でお前の動きを止めたわけではない。オレなりにそう思ったから言っただけで、そんなものはお前が取捨選択すれば良かっただけの話だ!」と。身勝手極まりない。

 

 誘導したいのだ。自分の思惑通りに。まさしく「お前の成功はオレのもの。お前の失敗はお前のもの。」思考である。頼んでもいないのに勝手に横槍を入れてくる人間は全員そうである。

 

 

心配するのが目的である人には何をやっても無駄

 どれほど能力を身に付けようが、絶対に信用してくれない人はたくさんいる。そんな強固な意思を変えるのに労力を費やすくらいなら、自分を肯定してくれる新しい人を探したい。

  その方が手っ取り早いし、何より圧倒的に楽である。他人は相手の自尊心を奪いこそすれ、養うことは決してできない。かつては僕の周りにも、僕のことを褒めてくれる人は何人かいたが、結局それによって自信が湧いてくるなんてことはなかった。むしろ心配されている気がした分、自信が喪失した。

 

 極論かもしれないが、全て自分一人だけで物事をこなし成功する。これ以外に自尊心を養う方法はない。小さなことでも自分で自分を褒めるというのもあるが、結局は気休めだ。しかしその気休めも、目標を達成する上で必要になるとは思う。そして相手の助けが必要な場合は借りに行く。相手からの誘いには乗らない。

 

 周りが褒めくれるのが同情からなのか、それとも尊敬からか。それを見極めるのも自尊心を育む上で重要だ。

無駄だと主張するために、その無駄なことをする

 何も行動しないよりも、何かやった方がマシなのは言うまでもない。それで失敗したとしても、微量の経験値として自分の中に残る。

 

 しかし結局のところ、微量の経験値はほとんどの人にとっては無意味なもので、その経験値でレベルアップするのは稀ではないだろうか。あってもなくても特に変わらない。

 

 失敗するとしても、自分が「これだ!」と思ったもので失敗する。これだと確かにショックは大きいが、得られる経験値としては結構デカい。逆にどうでもいいことだと、ショックも経験値もほとんどない。

 

 成功すれば確かに文句ナシである。しかし大抵は失敗に終わることが多い。

 

 失敗の基準は人それぞれなので何とも言えない。

①やってはみたものの、それなりには楽しかったが、自分の心を熱くさせるほどではなかった。

②やってみたが、全てのプロセスにおいてgdgdになってしまい、結果的に失敗して精神を病んだこと。

 

 大抵は前者なのではないだろうか。課題をクリアしたが、そこに大した達成感がなかった。だからこそ失敗だったのだと。後者もダメージは大きいものの、同じである。

 

 だがその失敗にこそ価値がある。それは「やっても無駄だったんだ!」と主張できるようになることだ。

 つまり自分でも充分に納得できたということで、その向いてない分野に足を引っ張られることがなくなるということだ。

 

向いてないことを堂々としなくていいなら最初から苦労してないってば…

 しかしながら、向いてなかろうとやらなければならない状況は当たり前にある。そこを見極めて、向いてなくてやらなくてもいいことは徹底的に切り捨てるのがベストだ。

 

 向いてなくてやらなければならないことは、焦燥感に駆られず、周りから何を言われても適当にこなしていきたいところだ。くれぐれも体調は崩さないようにはしたい。

 

 やりたいことのために向いてないことに挑むのはまだいい。しかし、やりたくないことのために向いてないことに挑むのは愚の骨頂。確実にメンタルを病む。それでもやらなければならないときはある。そのときは自分の感情だけは何としてでも死守する。焦らない、期待しない、外野を気にしない。難しいが、それができればきっと耐えられるだろう。

 

過去に似たようなことをしたからとかあまり関係ない。

 どれだけ過去に似たようなことをしてきても、やったことのないものに関して100%決断を下すことはできない。

 建築技術を磨けずとも、彫刻や陶芸の技術なら大丈夫なのかもしれない。科学が無理でも、数学ならできるかもしれない。

 

 やったことない以上、100%という文字はない。かつてたことをして失敗しても、少しでも気があるならやってみるのが最善。成功すれば儲けもの。それでも失敗したら、二度とその門には近づかない。無理やり体を拘束して門に近づけてくる外野は追っ払ってしまえ。

 

 

 失敗したとしても粘り強さがあるなら、再挑戦すればいい(それ以前に、粘り強さを獲得した時点である意味成功かもしれないが)。しかし引き際も大事である。自分の感情を殺し、自分を見失うのであれば、取り組んでいるものを今すぐ手放さなければならないだろう。

 

 因みに久しぶりの投稿です。

PVが100を突破した

 久しぶりの投稿となります。ほぼ生存報告的な意味合いで書かせていただきますが、PVが100を突破しました。

 

 

 …以上です。

 

 

 

 最近は少し更新頻度は落ちてしまいましたが、ネタはまだ温めているものがありますので、いずれ投稿致します。

 

 今後ともこの「よろず屋ダイアリー」をよろしくお願い致します。

人生のスタートラインは生殖細胞だと主張する親


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 子どもが親に問う。「何故私を産んだのか」と。

 その問いに対して、親は「あなたに会いたくて生んだのよぉ♡」とか「コウノトリさんがあなたを私たちの元に運んできてくれたのぉ♡」というクソみたいな回答を用意するだろう。

 それか素直に「そうだ!!お前はオレたちの汚い私欲によって産まれたのだ!」「あなたは私たちのエゴの塊よ!!成人するまで、あなたをどうするかも私たちの自由よ!!!」と開き直るのだろうか。

 

 人間は残虐な生物だ。生きていくためならどんなに酷いことでも行う。他の生態系だけでなく、同じ人間に対してもだ。

 

 その一つが、自分たちの幸福のために、何年続くかも分からない理不尽かつ苦痛だらけなRPGを、子どもに強制的に押し付けること。

 

 人生が苦痛の連続であるというのは最早明確なのに、自分がその苦痛から少しでも逃れたいがために、産まれてくる子どもにそれを押し付ける。

 

 そして生まれてきた子どもが、「何故私を産んだのか」と親に問い詰めれば、「何故お前は生まれてきた?」と返答する親もいる。

 

 その親は生殖細胞のときから意識があって、先に卵子にたどり着こうと必死にもがこうと頑張った記憶でもあるんだろうか?逆にその親はこの世の何に魅力を感じて生まれようと思ったのか?様々な苦痛のリスクを抱えてでもそうしたかったのだろうか。

 

 胎児もまた人としてカウントされない。にも関わらず、その段階で「ちゃんと産道を通れなかったのはお前の責任だ!!」「妊娠中でもお酒飲んだけどぉ、アルコールを上手く代謝しなかったお前が悪い!!」とか言う自分本位な親が増えている。

 

 障がいを持って生まれた子どもに対して「腹の中で一体何してたんだこのアホンダラ!!!」「なんで肉体形成しくじってんだよテメェ!!!」みたいな言い方をするのは、あからさまなエゴイストだ。

 

 そしてその子どもが自分の思い通りに育たないのなら、虐待して殺したり、家から叩き出して施設に隔離したり、実にやりたい放題である(ここまで行動を起こすことは滅多にないだろうが、起こしたいとは確実に思う)。

 

 そもそも動物でもある我々が、子孫を残さないでおく理由なんて微塵もないし、残す理由もまたない。普段は動物的とされる行動(腹が立ったら人を殴る、男性なら女性を一方的に襲う、周りの目線を何一つ気にしない行動を取るなど)を忌み嫌っておきながら、この場に限って、自分もまた動物であることを全面的に肯定し、子どもを産むのだ。

 

 それ以前に、食用に牛や豚や鳥などの動物を殺したりはするが、犬や猫は生かしたり(事情によっては殺すだろうが)、森林伐採オゾン層の破壊など、地球上の他の生き物にとって様々な問題を引き起こしてきた人類だ。今さら産まれてきた子どもの感情程度のことを考えたりはしないのかもしれない。

 

 日本は少子化の時代に突入しているが、老人の奴隷になることが分かりきっているのは言うまでもない。高齢化問題さえどうにかできれば、少子化はこちらとしてはどうでもいい。

 むしろ生まれる子どもの感情のことを考えると、産まないのもあながち間違いではないだろうと思う。子どもを産まないことで適用される罰則なんて何一つないことだし。

 

 余談だが、自分に持病があるにも関わらず子どもを産もうとする親、無一文にも関わらず子どもを産もうとする親は特にヤバい。親子関係を作るのが絶対的な目標になっていて、周りが見えていない。バトル漫画の主人公にも匹敵する執着心が垣間見える。

 

 ほとんど私情が入り乱れた内容になってしまったが、子どもは親の一方的な私欲で生まれるにも関わらず、生まれてくる子どもに全ての責任を押し付ける人の存在があまりにも図々しいと思ったので、こうして文にしてみた。

時代が変わっても、心はそれになかなか追いつかない


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 昔の時代と比べ、現在では戦争や飢えで死ぬことはなくなった。スーパーやコンビニが誕生したことで、生活の利便性が大きく増した。さらにはスマートフォンも登場し、いつでも必要な情報を得られるようになった。

 

 少なくとも戦時中から、これだけ文明が発達したにも関わらず、未だに心が追いついていない者が存在する。80~90代の方々である。

 

 家族として共に過ごしたという方もいるだろう。あの年代の人たちはやたらと物を貯めたがるのだ。それに管理能力がろくにないにも関わらずだ。

 財布の中身はカード類でぎっしりだったり、某5歳児の母親みたく、部屋の押入れは物でぎゅうぎゅう詰めであったり、他にも何に使うのかよく分からない代物がたくさん置いてある。

 

 昔の時代は物がなかったなんてよく言われる。いつなくなるかも分からないので貯蔵しておくのがベストなのだと。しかし今ではむしろ余計な物で溢れ返っていると言っても過言ではない。

 

 現在では過去ほどに物に飢える時代ではないのは誰もが理解しているはずである。…にも関わらず、そんな年配の方々が物に執着するのは、物に飢えていた記憶が心に刻まれているからである。「今は物は手に入るけど、いつまたなくなるのか分からない!」「貯蓄は大事やねんぞ!!」と、心はまるで時代に追い付いていないと見受けられる。

 

 逆にそうでない世代は、物に飢えた時代を生きていない。必要最低限あれば事足りるという人が多いし、何より自らの管理能力も分析できてると思う。むしろキャパオーバーにも関わらず、家をゴミ屋敷にしてる年配の方々の物に対する執念もなかなか凄いものではあるが。

 

 いずれそうでない世代も、時代の変化に心が追い付けない事態になるのは明白だ。そういう意味では、断捨離もまた人の適応力の育成に役立っていると思う。古いものor自分にとって役に立たないものor足枷になるものを捨て、新しいものを取り入れる。湯船の古い水を流しつつ、新しい水を入れる。実践するまでは長い道のりかもしれない。しかし一度でもそれに取り組めれば、あとはどうにでもなる…かもしれない?

 

 「物を貯蔵するのは大事だけど、管理能力を上回っちゃ本末転倒だよね」ということを、あの世代の人たちはもっと自覚すべきだろう。

いずれいなくなる人の意見を指針にしてはいけない


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 「〇〇する方がいい!!」「お前は〇〇すべきだ!!!」と命令してくる人たちは、親族も含めて僕の周りに一定数いた。

 

 正論を振りかざして人に命令する一方で、自分は好きなことやって楽しんでいる。

 

 元友人のAもそうだった。というよりAも、根の部分では自分より下だと思った人を支配したかったのかもしれない。

 Aの意見が僕にとって正しいもので、僕がAの思い通りに行動したとしても、その責任は僕に発生する。その際Aも含めて、「〇〇をやれ!!」とは決して口にしない。「〇〇すべき!」「〇〇した方がいいのでは…」と、あくまで自分は一意見を述べただけだよ的な言い方をする。

 

 成功した場合は全部自分のおかげで、逆に失敗した場合は全部相手の責任にするのだ。

 

 同じようなことを命令されたりする状況こそ続くが、その命令する人がずっと同じ人であり続けることはない。どんな人でもいつかは自分の目の前からいなくなる。

 

 そのいなくなる人を絶対的な指針にしていては、確実に人生に悪影響が出る。第三者から見れば、自分の意思がなく他人に依存してきただけの人になる。「××さんが言ったから…」「××さんがそうすべきだと仰ったから…」なんて意見を間に受けてしまうくらいなら、いっそのこと耳に栓をすべきである。

 

 相手を思い通りにしてくる人は、好き勝手言うだけで何の責任も取らない。そんな相手はもう無視するか、距離を置いてしまいたいところだ。