よろず屋ダイアリー

興味のあることについて書いていきたい

人生のスタートラインは生殖細胞だと主張する親


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 子どもが親に問う。「何故私を産んだのか」と。

 その問いに対して、親は「あなたに会いたくて生んだのよぉ♡」とか「コウノトリさんがあなたを私たちの元に運んできてくれたのぉ♡」というクソみたいな回答を用意するだろう。

 それか素直に「そうだ!!お前はオレたちの汚い私欲によって産まれたのだ!」「あなたは私たちのエゴの塊よ!!成人するまで、あなたをどうするかも私たちの自由よ!!!」と開き直るのだろうか。

 

 人間は残虐な生物だ。生きていくためならどんなに酷いことでも行う。他の生態系だけでなく、同じ人間に対してもだ。

 

 その一つが、自分たちの幸福のために、何年続くかも分からない理不尽かつ苦痛だらけなRPGを、子どもに強制的に押し付けること。

 

 人生が苦痛の連続であるというのは最早明確なのに、自分がその苦痛から少しでも逃れたいがために、産まれてくる子どもにそれを押し付ける。

 

 そして生まれてきた子どもが、「何故私を産んだのか」と親に問い詰めれば、「何故お前は生まれてきた?」と返答する親もいる。

 

 その親は生殖細胞のときから意識があって、先に卵子にたどり着こうと必死にもがこうと頑張った記憶でもあるんだろうか?逆にその親はこの世の何に魅力を感じて生まれようと思ったのか?様々な苦痛のリスクを抱えてでもそうしたかったのだろうか。

 

 胎児もまた人としてカウントされない。にも関わらず、その段階で「ちゃんと産道を通れなかったのはお前の責任だ!!」「妊娠中でもお酒飲んだけどぉ、アルコールを上手く代謝しなかったお前が悪い!!」とか言う自分本位な親が増えている。

 

 障がいを持って生まれた子どもに対して「腹の中で一体何してたんだこのアホンダラ!!!」「なんで肉体形成しくじってんだよテメェ!!!」みたいな言い方をするのは、あからさまなエゴイストだ。

 

 そしてその子どもが自分の思い通りに育たないのなら、虐待して殺したり、家から叩き出して施設に隔離したり、実にやりたい放題である(ここまで行動を起こすことは滅多にないだろうが、起こしたいとは確実に思う)。

 

 そもそも動物でもある我々が、子孫を残さないでおく理由なんて微塵もないし、残す理由もまたない。普段は動物的とされる行動(腹が立ったら人を殴る、男性なら女性を一方的に襲う、周りの目線を何一つ気にしない行動を取るなど)を忌み嫌っておきながら、この場に限って、自分もまた動物であることを全面的に肯定し、子どもを産むのだ。

 

 それ以前に、食用に牛や豚や鳥などの動物を殺したりはするが、犬や猫は生かしたり(事情によっては殺すだろうが)、森林伐採オゾン層の破壊など、地球上の他の生き物にとって様々な問題を引き起こしてきた人類だ。今さら産まれてきた子どもの感情程度のことを考えたりはしないのかもしれない。

 

 日本は少子化の時代に突入しているが、老人の奴隷になることが分かりきっているのは言うまでもない。高齢化問題さえどうにかできれば、少子化はこちらとしてはどうでもいい。

 むしろ生まれる子どもの感情のことを考えると、産まないのもあながち間違いではないだろうと思う。子どもを産まないことで適用される罰則なんて何一つないことだし。

 

 余談だが、自分に持病があるにも関わらず子どもを産もうとする親、無一文にも関わらず子どもを産もうとする親は特にヤバい。親子関係を作るのが絶対的な目標になっていて、周りが見えていない。バトル漫画の主人公にも匹敵する執着心が垣間見える。

 

 ほとんど私情が入り乱れた内容になってしまったが、子どもは親の一方的な私欲で生まれるにも関わらず、生まれてくる子どもに全ての責任を押し付ける人の存在があまりにも図々しいと思ったので、こうして文にしてみた。

時代が変わっても、心はそれになかなか追いつかない


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 昔の時代と比べ、現在では戦争や飢えで死ぬことはなくなった。スーパーやコンビニが誕生したことで、生活の利便性が大きく増した。さらにはスマートフォンも登場し、いつでも必要な情報を得られるようになった。

 

 少なくとも戦時中から、これだけ文明が発達したにも関わらず、未だに心が追いついていない者が存在する。80~90代の方々である。

 

 家族として共に過ごしたという方もいるだろう。あの年代の人たちはやたらと物を貯めたがるのだ。それに管理能力がろくにないにも関わらずだ。

 財布の中身はカード類でぎっしりだったり、某5歳児の母親みたく、部屋の押入れは物でぎゅうぎゅう詰めであったり、他にも何に使うのかよく分からない代物がたくさん置いてある。

 

 昔の時代は物がなかったなんてよく言われる。いつなくなるかも分からないので貯蔵しておくのがベストなのだと。しかし今ではむしろ余計な物で溢れ返っていると言っても過言ではない。

 

 現在では過去ほどに物に飢える時代ではないのは誰もが理解しているはずである。…にも関わらず、そんな年配の方々が物に執着するのは、物に飢えていた記憶が心に刻まれているからである。「今は物は手に入るけど、いつまたなくなるのか分からない!」「貯蓄は大事やねんぞ!!」と、心はまるで時代に追い付いていないと見受けられる。

 

 逆にそうでない世代は、物に飢えた時代を生きていない。必要最低限あれば事足りるという人が多いし、何より自らの管理能力も分析できてると思う。むしろキャパオーバーにも関わらず、家をゴミ屋敷にしてる年配の方々の物に対する執念もなかなか凄いものではあるが。

 

 いずれそうでない世代も、時代の変化に心が追い付けない事態になるのは明白だ。そういう意味では、断捨離もまた人の適応力の育成に役立っていると思う。古いものor自分にとって役に立たないものor足枷になるものを捨て、新しいものを取り入れる。湯船の古い水を流しつつ、新しい水を入れる。実践するまでは長い道のりかもしれない。しかし一度でもそれに取り組めれば、あとはどうにでもなる…かもしれない?

 

 「物を貯蔵するのは大事だけど、管理能力を上回っちゃ本末転倒だよね」ということを、あの世代の人たちはもっと自覚すべきだろう。

いずれいなくなる人の意見を指針にしてはいけない


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 「〇〇する方がいい!!」「お前は〇〇すべきだ!!!」と命令してくる人たちは、親族も含めて僕の周りに一定数いた。

 

 正論を振りかざして人に命令する一方で、自分は好きなことやって楽しんでいる。

 

 元友人のAもそうだった。というよりAも、根の部分では自分より下だと思った人を支配したかったのかもしれない。

 Aの意見が僕にとって正しいもので、僕がAの思い通りに行動したとしても、その責任は僕に発生する。その際Aも含めて、「〇〇をやれ!!」とは決して口にしない。「〇〇すべき!」「〇〇した方がいいのでは…」と、あくまで自分は一意見を述べただけだよ的な言い方をする。

 

 成功した場合は全部自分のおかげで、逆に失敗した場合は全部相手の責任にするのだ。

 

 同じようなことを命令されたりする状況こそ続くが、その命令する人がずっと同じ人であり続けることはない。どんな人でもいつかは自分の目の前からいなくなる。

 

 そのいなくなる人を絶対的な指針にしていては、確実に人生に悪影響が出る。第三者から見れば、自分の意思がなく他人に依存してきただけの人になる。「××さんが言ったから…」「××さんがそうすべきだと仰ったから…」なんて意見を間に受けてしまうくらいなら、いっそのこと耳に栓をすべきである。

 

 相手を思い通りにしてくる人は、好き勝手言うだけで何の責任も取らない。そんな相手はもう無視するか、距離を置いてしまいたいところだ。

コミトレ30に参加してきました

 9月3日にインテックス大阪で開催された「こみっくトレジャー30」にサークル参加致しました。同人誌即売会の1つでもある「こみっくトレジャー(コミトレ)」ですが、一般の参加ではなくサークルでの参加が初見となりました。



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 ブログの方でも少し紹介した「爆ボンバーマン2」に関する冊子を頒布させて頂きました。5部しか発行しておりませんでしたが、お手に取って下さった皆様本当にありがとうございます。

 

 

 さてこの「爆ボンバーマン2」の冊子ですが、意外にもこのゲームの存在を知っている人が多かったように思います。

 

 古いゲームであることと、未だ(この記事を書いている時点で)にVCでも配信されていないこと、ボンバーマンの存在を知ってはいるものの、世界観やストーリーまでは知らないという人も多いなど、頒布する前はそういった不安も多かったのですが、ほとんど杞憂に終わりました。少なくとももう10部ほど刷っておけば良かったとも思いましたね(思い上がり)。

 

 

 冊子の内容ですが、このブログで取り上げたものも含まれています。ゲームをプレイしたことのある方なら、非常に思い入れのある冊子になったと思います。

 

 N64の中ではプレイ時間的にも1番のお気に入りですが、序盤のボスが強すぎたり、機動力も何もないのに、場外に落ちるとゲームオーバーになったり、ラスボスもまた強すぎたりなど、今の時代に発売されていたら、間違いなくクソゲー扱いされていたと思います。発売時期としても時代には合っていた(それでも難しいとの批判こそあったが…)と思います。

 

 

 前作をプレイしていないので、爆ボンバーマンシリーズについては完全に知り尽くしているわけではありませんが、ゲームの作りとしても、前作と今作でそれぞれ独立しているイメージが強いと思います。

 

 プレイをオススメするわけではありませんが(記事にしている時点で説得力はないか…)、こんなゲームもあるのだと心の片隅にでも置いて頂ければ幸いです。

諦めてるようで、実は諦めてない人が多い

 人生とは諦めの連続であるというのは、最早共通認識の一つであり、生きていく上で必要不可欠な行動でもある。

 

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

 

 こちらの本によると、諦めるとは「明らかに見る」という意味で使われており、物事の本質を見極めるという行為でもある。決して諦める=怠惰というわけではない。むしろ肯定的なイメージを持たせてくれる。

 

 

 子どもでも、今まで無意識ながらに諦めたことのある人は多いだろう。「オレはイケメンでもスポーツ万能でもないしなぁ…」とか「私そんなに可愛くないし、巨乳でもないし…」など。

 

 そんなコンプレックスを抱いた僕たちは、何らかのかたちでそれを投影する。例えばゲームのアバターや、オリジナルキャラクターの考案など、現実では諦めていたものがそこで具現化される。

 

 

 容姿、能力、性格が自分にとって都合の良い存在の人を僕たちは求めている。 世界にはいわゆる完璧な人と呼ばれる存在はいない。しかし、仮にそれに近い存在がいたとして、かつ僕たちにそれを選べる権利があるのだとしたら?

 答えは最早明確である。みんな結局はそんな優れた人を選ぶ。諦めているようで、実は諦めていないのだ。

 

 現実では実現するのが極めて困難だからこそ、それを実現するための場所をなんとか用意しようと、みんな必死なんだと思う。現実では不細工な人でも、プリクラの中では美人として振る舞える。安くて美味しいレストランか、高くて美味しいレストランがあれば、前者を選ぶのは当たり前の話である。 

 

 完璧になるべく、努力してきたものの、精神的に折れてしまい挫折することとなった人でも、表面上諦めてはいるものの、無意識下では諦めていない。むしろ何らかのかたちで再びその気持ちは浮上する(親が子どもに勉強を強いて、エリートに育て上げんとするのもそれに近い)。諦めたくて諦める人はまずいないからだ。

 

 

 人間は何かを完全に諦めることはできない。表面上では諦めてるように見えても、根の部分まで諦めてはいないと思う。

正論を武器にする人は、反論されるのにビビってる人種


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 イケメンに「お前はブサイクだから女子にモテないよ?」とか、他の人に「テストの成績だけど圧倒的にオレの方が良い!!お前はオレの勉強に対して指図してくるなよ三下ァァ…!!」など、絶対に反論できない言い方をしてくる連中はいつの時代にもいるものだ。

 

 大概は自身の成果を掲げてくることが多い。 「ほら!これがその証拠だぜぃ!?」とか、明らかに成果物に依存している感じにも見える。

 

 相手が悪いことをしたときなども、「お前がやったんだろ!!この殺人鬼め!!!これから先どれだけ善行を行っても、お前の罪は消えないんだからな!!!」と、本人は絶対に相手から反論されないorさせない立ち位置にいる。

 

 

 このように、正論を武器に相手に攻撃してくる連中というのは、非常にタチが悪いし、僕もそんな人たちと遭遇すらしたくない。きっと議論どころか、話し合いすらもできなさそうである。

 

 確かに正論とは非常に強力な武器である。どれだけ口が達者な人でも、それを前にすれば、口を完全に封じられてしまう。最悪の場合、幼児にすら勝てなくなるほどである。

 

 

 しかし正論だからと言って、相手に何を言ってもいいんだろうかと僕は思う。

「正論は正しい、だが正論を武器にする奴は正しくない。お前が使っているのはどっちだ?」

                                            ※図書館戦争より引用

 

 「図書館戦争」についてはあまり詳しくないので申し訳ない。正論を武器にするのは、とどのつまり相手の上にのしかかり、抵抗する手段を断たせることだ。

 

 相手と口喧嘩して勝つとか、論破したいわけではない。ただ屈服させたいだけなのだ。

 

 ゲームに例えると、どんなプレイヤーでも絶対に抗えない力を使い、相手を殴る行為に等しい(絶対に抗えない力の存在が正しいか否かはさておき)。

 

 

 

 口喧嘩が苦手だった僕も人のことは言えない。揉め事が起こったときは、証拠品集めに走っていた記憶がある。それさえあればほぼ確実に相手に勝てたからだ。

 

 

 正論の存在は否定されるものでない。しかしそれを武器として使い、相手を一方的に虐げる行為は間違っている。

他人に手を差しのべるのは、その人を支配したいから


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 支援してくれる人は、こんな世の中にも一定数いるものである。人は助け合うことで生きていける。しかし
現状はやはり、助ける人が一方的に弱者を助けるだけである。実際にお互いが助け合うという展開はあまりないんじゃないかと思う。

 

 助ける人についてだが、損得勘定で考えると、助ける側が不利なのは言うまでもないだろう。助けられる側は、大した恩返しなどできないのだから。

 

 それでも、人を助けるのにはやはり理由がある。性格上、困っている人間をほっておけないだとか、放置しておくとその人間が暴走して手に負えなくなってしまうからだとか、助けるという恩を与えることで、逆にその人間を支配するなど、いろんな理由がある。

 

 

 助ける側の人間>助けられる側の人間という図式が完成してしまうと、助ける側の人間はどうしても、助けられる側の人間を見下したり、自分の意のままに操りたいと思うようになる。

 

 この図式は助ける→助けられるという状態が一定期間続くことで成り立つ。

 

 サポートセンターやお悩み相談所等では典型的にこの例である。「助けてあげよう(*´ω`*)」と寛大的に見えるものの、サービス内容などについて不満を述べるだけで、向こうは一気に嫌な顔をするだろう。「何やねんこいつ…(💢゚Д゚)上から目線で何調子に乗ってやがんだよ…!!!」と。そんな雰囲気を感じ取れたのなら、向こうは弱者を支配したいだけの悪人である。

 いのちの電話なんかは、自殺志願者を助けると謳いながら、実際にやっていることは「相談者の話を   聞   く   (笑)   」である。こちらは弱者を支配したいだけというか、自分たちの的外れな行動が人を救えると勘違いしている(金のために嫌々ながらというのも多数かもしれないが)人たちである。

 

  

 人助けというのは、助ける側にも何らかの利益があるか、不利益を回避するために行われるものだ。助ける側が圧倒的に不利になるならば、そもそも他人を助けることはまずないと言っていいだろう。

 

 そして人を助ける以上、その助けられた人に感謝の意を求めてくる。「私は別に感謝なんて求めてないよ!」と主張する人も、無意識ながらにそれを求めているのは明白だ。

 

 他人を支配したいという気持ちは、人助けにおいてもその本質が露呈する。「せっかく助けてやったのに、何だあの態度!!」「あのとき困ってるお前を助けてやったのは誰だと思っている?いいから黙ってオレの言う事を聴け!!」大なり小なり世の中はこんなものである。

 

 

 他人に支配されるから救助を拒めという感じに取られそうだが、僕としては、他人からの救援はチャンスだと思って、思いっきり利用してやるべきだと思う。

 自分が「ひょっとしたらオレは利用されているのでは?」と感じ取った偽善者なら勝手に離れて行くし、それでも離れて行かないなら、その人にほんの少しだけ期待してみるのもアリだと思う。

 

 

 助けてくれる側も損得勘定で動くため、どうしても支配欲が出てくるのは仕方のないことだ。しかし圧倒的に不利な立場であろうとも、助けてくれる人間だけはこの手で選びたい。どうにか自己利益しか考えない偽善者を引いてしまわぬようにしたいものだ。