よろず屋ダイアリー

元不登校・HSP・ADHD疑惑マンの思考回路集

今年の年賀状はとうとう0枚に…


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 僕は年賀状という義務みたいな風潮が大の苦手だ。ただでさえ正月というのは疲れ果てていることが多いというのに、その上相手と文通しなければならないと思うと気が滅入る。

 

 元々僕には友だちがほとんどいないので、年賀状を書くと言っても、せいぜい2~3枚程度である。人によっては特に苦もないだろうが、携帯電話が普及した現代においては非常に煩わしい作業である。「年賀状を書くのが楽しみ♪」とか平気で言える人間の感性が恐ろしい。

 

 相手から年賀状が来たときに返事を出すという方法にした結果、今年で僕の元に来た年賀状が0枚になった(笑)

 

 傍から見ると、将来は世捨て人だとか孤独死一直線といったところか。別にショックは受けていない。そのときの僕の顔は、「まぁそうですよねぇ…」といった感じだったに違いない。今までに来た年賀状は全てゴミ箱に捨てており、周りから強制されない限り年賀状を書くことなんて一切ないだろう。仕事でもないのに、礼儀だとか義理で年賀状を書いて年末しんどい思いをしている人を見るとアホらしくなる。だったらそんな悪習慣辞めてしまえやと思う。

 

 年賀状を出さず、携帯だけで新年の挨拶を済ませる人に対して、どうにも世間は冷たいような気がする。昔の時代に年賀状というツールが出てきた頃も、きっとすぐには受け入れられなかったに違いない。「あんな紙切れ1枚におめでとう書いて終いか!!実際に相手に会いに行ってこそなんぼじゃ!!」とむしろ世間から非難されていたはずだ。

 

 年賀状を書かない人をあれこれ非難してくる人は、昔の時代だと、そのときに登場した年賀状という慣習を受け入れなかったに違いない。紙切れ1枚で事を済まさず、遠方はるばる親戚の元を訪れたのだろう。

 

 僕は自分から年賀状を出す人間ではなく、相手から来た場合に返事を出してきた。今年もそう待ち構えていたところ、僕宛てに来た年賀状は1枚もなかった(会員登録している店のダイレクトメール等除く)。これで僕は年賀状という慣習に、一切手を染める必要はなくなったのだ(現状のところプライベートでは)。

 

 ある意味では年賀状というよく分からない慣習を断捨離できたので、むしろメリットだと思っている。スマホがあるならそれで充分やねんって話。

他人と一線引くためにも、年下相手でもあえて敬語を使う


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 僕は人と話すときは敬語が良いと思っている。と言うのも、別に相手を尊重したいという一心で使うわけではない。

 

 年下だからとタメ口で接すると、どうしてもそいつと距離が近くなってしまうと感じるからだ。気の合いそうな人なら別に問題ないんだが、そうでなさそうな人とはむしろ遠ざかって欲しい。僕は基本的に単独行動を好む。…と言うよりむしろ、人と接するのが大の苦手なので、1人でいた方が気が楽なだけなのかもしれない。

 

 

相手を敬う話し方こそ敬語だが、敬うことで一定の距離を置けたりする

 単純に考えて、友だち同士で敬語を使われたらどう思うだろう。「な、なんで敬語…?」と困惑するに違いない。距離が近いのならタメ口を使うのが妥当なところだが、敬語を使うというのは、完全にその人と一線置きたいことの表れだと思う。

 

 実際にタメ口の方が距離を詰められている気がするし、さらにそのタメ口を使ってくるのが年下の相手だと、自分と対等かそれ以下に見られていることが多い。

 

 相手に失礼がないようにするためだけの敬語ではないと思ってる。なるべく人と距離を詰められないようにするために使うのがある意味適切ではないかと思っている。親しいにも関わらず敬語を使うなんてことはないから、やはり敬語というのは、距離感を詰められないようにするための、いわば心のバリアのようなものだと思う。

 

 僕でも、自分よりも年下だろうなぁと思う相手であっても敬語は使う。親しいときに使うのがタメ口だと思っているので、タメ口を使っていると、その人との距離が近くなるような気がしてならない。仲良くなりたくもない相手なら、むしろ敬語はガンガン使うべきである。

 

 

話し方さえ丁寧にしとけばOKだと思う

 年下相手に敬語を使うのに抵抗を示す人もいるだろうが、別に態度まで改めろというわけではない。どうも敬語と態度をセットに考えてしまう人が多いが、年下相手だったら別に態度なんて気にしなくていい。相手に感情を支配されるのは、その人直属の奴隷になるのと一緒だ。そもそも敬語自体、自分よりも年上の相手に使うのが主流な雰囲気があるからこそ、態度まで一緒くたに考えてしまいがちだ。年上だったり身分が上でないと相手を敬えないなんてことはない。敬えるものがあれば勝手に使っていけばいいと思う。

 

 それだったらタメ口のときと変わらないのではと言う人もいるだろう。敬語を使うことの本質とは、自身をある程度律することにあると僕は思っている。タメ口だとどうも自分を制御できなくなって、本音がだだ漏れになってしまいがちだ。そこで、普段使い慣れていないであろう敬語を使えば、それを改善することができる。

 

 ぶっちゃけ使い慣れていない話し方だったら何でもありだが、わざわざ「〜ござる!」とか「〜ですわよ!」なんて使うのも変だなと思ったまでのこと。それに初対面だと相手に失礼だし。

 

 

関係を持ちたくないなら、むしろ年下相手でも敬語を使っていこう

 年下相手に敬語を使うだけなら別に癪ではないし、もしも向こうがこちらにタメ口を使ってきたとしても、僕は普通に敬語で返すつもりでいる。相手に感情を支配されさえしなければそれでOKだと思ってるからだ。

 

 それに年下相手にタメ口を使うと、相手と同じ土俵に立ったみたいになってしまうから余計に嫌な感じがしてしまう。

 

 

まとめ

 関係を持ちたくない相手だったら、年下・同年代に関わらず、いつまで経っても敬語を使えばいい。敬語を使う=人間関係を築かないではない。年上の人に対してはずっと使うべきだと思うし、年下や同年代でも、気の許せる相手だったらタメ口に切り替えればいい。流石に初対面でタメ口を使うのはマナーがなってないと思うので、そういうときは基本的に敬語を使うべきである。

 

 久しぶりの投稿で記事がまとまってない気がするが、まぁ僕は気にしない!

新年のご挨拶

 よろず屋ダイアリーです。明けましておめでとうございます。

 

 このブログももうすぐ2年目ですが、ようやくカテゴリみたいなものが決まったというか何というか…。

 

 まぁ、自分なりのペースで更新していけたらなと思います。

 

 よろず屋ダイアリーでした。

井の中の蛙になってでも何かを成し遂げたい


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 人間というのは、無意識ながら何かに執着する生き物だ。中でも「成功」というのは人間にとって、自身を肯定する上で必要不可欠な要素だ。人は何かに取り組み、そこで成功を収めることでようやく自信を手にする。

 

 成功を収めても自信が身に付かないというのは、それまでの過程で他の人たちと比較し、その人たちよりも上手くやれなかったのが主な理由だと考えている。

 その際、周りから「お前はダメな奴だ!」「このノロマ!!早くしろ!」なんて言葉を浴びせられてしまうと一層自信を喪失する。助けを借りまくってやっっっっっと成功を手に入れて、「ほら、やればできるじゃないか!」と言われても、そんなかたちで手にした成功なんてむしろ自信喪失するきっかけにしかならない。

 

 

メリットを考えた上で誰かと比較したい

  較は人に「お、あいつらすげぇ!!俺も頑張りますかねぇ!」と向上心をもたらすが、同時に「あの人たちは俺よりずっと上手くやってる…。それに比べて俺はなんて駄目なんだ…」と悲観する要因にもなったりする。しかし誰とも全く比較しないとなると井の中の蛙だ。なるべく前者の恩恵を受けるために、誰かと比較していきたい。

 

 しかし比較をすると後ろ向きになってしまい、どうしようもなくなるというケースがほとんどだ。そして中には、それによって動けなくなってしまう人もいる。比較は良い方向にコントロールできれば問題ないが、できないのであれば井の中の蛙でも構わないと思う。とりあえず比較対象を視界に入れない努力を優先した方がいいかもしれない。

 

 僕も元友人のAとBを比較し、その結果よく落ち込んでいたものだった。縁を切るのと同時に、彼らの連絡先をも一掃した。おまけに卒業アルバム・文集も破棄したので、何らかのかたちで再開するまでは、彼らのことを忘れられるだろう(卒アル等を破棄することに関しては、むしろ学校での嫌な思い出を消し去りたいという側面の方が強い)。

 

 

どうせ他人なんて言いたいこと言うだけで何の責任も取っちゃくれないんだから、背景だと思っていればいい

 他人と比べない方法だが、他人に興味を持たないことが圧倒的に楽だろう。視力が滅茶苦茶悪く、コンタクトや眼鏡をしている場合、基本的にそれを外した状態にしておく。比較対象が視界に入ったとしても、ボヤけて見えるので顔を覚えにくくなる。

 

 他人に興味を持たないための第1歩は、その人の顔を極力覚えないことだ。と言っても何度もお互いに顔を合わせてしまえばそれまでだが、付き合いが短ければ非常に有効だ。

 

 そしてそのために、 友だちを積極的に作ろうとせず、相手からの会話は全て適当に対応して構わないと思う。成り行きで連絡先を交換することになっても、無理に返信する必要性なんてない。しかし無理に荒波を立てるのだけは厳禁だ。変な意味で目立ってしまうと、周りからの当たりがキツくなる可能性がある。

 

 ぶっちゃけ他人なんて無視しろという超単純なものだが、他人もそこまで人に執着するなんてことはないと思う。雑に扱えば向こうも空気を読んで離れていくだろう。逆に執着してくるなら、もう運がなかったと諦めた方が賢明だ。場合によっては警察など第三者に協力を仰ごう。

 

 

比較したいと思ったときにでも比較すればいい

 他人と切磋琢磨し成長するのは立派なものだが、そこに比較が発生することで身動きが取れなくなるくらいなら、いっそのこと井の中の蛙になっても構いやしない。実際僕がそうだったわけだし、周りから何か小言を言われることもなかった。言われたとしても、僕の耳には入って来なかったので言われてないも同然だった。

 

 それに今の時代なら、必要とあればいつでも他人と比較できる。SNSやブログ等で他人のアカウントを覗けばいいだけの話だ。その相手を見て、自分も頑張るのだと鼓舞できるなら問題ない。しかしその相手を見て自身が落ち込んだり、ましてや攻撃しに行くのは論外である。自信が付いたなと思った次に比較してみればいいと思う。その際、自分より上の人を見ないと意味がないので、下には目を瞑ろう。

 

 誰とも比較しないままでいることは別に怖いことではないと思う。今まで学校という、バグだらけで比較を強制されるコミュニティに属してきた人なら、最低限の基準みたいなものは熟知していると思う。昼飯に1000円以上使うのは高すぎるとか、人前で堂々とおならするのは下品とか、自転車に乗れないと不便すぎるとか。

 

 過去に散々他人と比較させられてしんどい思いをしてきたのだから、当分は井の中の蛙になって「これだ!!」と思ったことをやるべきだと思う。その過程で失敗しまくったり、挙句には挑戦なんかしなけりゃ良かったと思うかもしれない。成功か失敗かに関わらず、それをやってみてどうなったかという結末を知れるだけでも十分な経験値になるのではないだろうか。もちろん成功するに越したことはないけど、失敗に終わってしまったとしても、それは自分にとって無駄な行為と分かったという事実は無駄ではないと思えれば万々歳だ。

 

 

まとめ

 学校とかいうクソコミュニティに入れられ、他人と比較を強制されることで打ちひしがれている人は多いと思う。そのため本来なら取り組めたものにも、人の目線を気にして疲れて取り組めなかったりすることがある。井の蛙になったら、アドバイスや支援もないので難易度が高いと思われがちだが、その分自由があるので、実際はそんなに変わらない。合うか合わないかの違いでしかない。

 

 他人が邪魔で動けないというなら、もういっそのこと蛙になってから何かに取り組めばいいと思う。ずっと他人との比較に晒されてきたのだから、硬直しているよりも力を抜いた方が気分的にもスカッとするだろう。

 

 他人と比較しないことは悪じゃない。むしろ比較してビビってしまって何もできなくなる方がよっぽど悪だ。比較したくなったときに無理のない範囲で比較していけばいいだろうと思う。攻撃しに行くとか、サボったりする口実を作るくらいなら、自分より下の人たちに目を向けてはならない(それでも、自分のレベルを知ることは大事だとは思う)。

生まれてきてしまったが、それでも全てが悪いことばかりではなかったと思いたい


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 出産というかたちで、親は子に生老病死という苦痛を付与する。この世はありとあらゆる苦痛に塗れた大海だ。息をするために浮上するだけでも一苦労で、その繰り返しを余儀なくされる。疲れたら休めばいいのは分かってる。でも違うんだ。僕が言いたいのは、

 

疲れたら休む

→また動いて疲れたら休む

→また動いて疲れたら休む

→また動いて疲れたら休む

 

この連鎖を繰り返すことそのものがすでに苦痛なのだ。容易な気持ちで「しんどかったら一休み入れなよぉヽ(・∀・)ノ」とかアドバイスしてくる人はその部分が全く見えていない。的外れな意見だし、何の参考にもならない。

 

 

娯楽は痛み止めに過ぎない

 世の中には苦痛が大半だが、それを抑えるための痛み止めがある。その痛み止めというのが、いわゆる娯楽という代物だ。スポーツ、カラオケ、旅行、豪華な食事などが該当するが、そもそも苦痛さえ感じていなければそんなものは不要である。疲れているからこそ息抜きに遠出してみたり、栄養摂取としてステーキを食べまくったり、パチンコやギャンブルで博打を楽しんだりする。それらの行動を起こしている時点で、その人はすでに疲れてしまっているのだと思う。

 

 疲れていないときにマッサージや、キャバクラに普通は行かないだろう。痛み止めが、どこか体に痛みがあるときに服用するのと同様、娯楽もまた苦痛を紛らわせるために行うものなのだ。痛み止めや娯楽そのものに価値はない。生老病死なんて存在しなければ、そんなものを求めることも決してないのだから。

 

 娯楽を楽しむというのはつまり、体の痛みを鎮痛剤で緩和する行為と同じだ。仕事をしまくることで疲れ切った体を、娯楽サービスで癒しまくる。これこそがじゃんじゃん働いてじゃんじゃん浪費しろという、政治家の主な目論見の1つでもあるというわけか。うわぁ、マジで汚い手使いますなお偉いさん方は。

 

 

どうあがいても生まれてこないに越したことなんてない

 よく本の中には「病気になって良かった✿゚❀.(*´▽`*)❀.゚✿」みたいなタイトルの作品がある。題名をそのままの意味で捉えてはいけない。あくまでこういうのは、「病気にはならないに越したことはなかったけど、それでも全てが悪いことばかりじゃなかったゾ☆」という意味だ。病気にならないことが最善であることに変わりはない。「病気になって良かったのか!!すげぇ!じゃあ俺も病気になろう!!!」とわざわざ病気になりにいく人なんてまずいないだろう。

 

 運悪く生まれてきてしまった人も、「苦痛だらけの生老病死を押し付けられてしまったけど、それでもこの世界はそればかりじゃないんだ!」と最低限思えることができれば、まだ多少は生きやすくなるのかもしれない(目標にはしてるが、達成はほぼ不可能)。もちろん、対に生まれてこない状態の方が圧倒的に良いのは言うまでもない。なので安楽死には賛成という意見には変わりがない。

 

 

出産以外にも幸せはあっていいと思う

 生老病死という苦痛を人に押し付ける以外の手段で幸せを得られたら僕は嬉しいと思う。子どもが欲しければ養子になる子を探すとか、ペットを飼ったりするだけでも幸せは得られると思う。

 

 度の障がいを持った子が産まれたら、即座に赤ちゃんポストに超ダンクシュート!!したくなる親も多いのだという。そしてそういうとき、出生主義者の方は「このクソ醜い肉片が子宮の中でヘマやらかしやがったのが悪いんだ!!」と主張することだろう。出産をエゴだと自覚できない、したくない人もまたそう思うことだろう。

 

 「生殖器官なんだから使わないとモッタイナイ!」とか言う人は、今すぐにでも盲腸とか、脳の使っていない箇所とか使ってみたらいいと思う(まぁ不可能だけど)。要するに使ってない臓器があるのが気に入らないってことなのかもしれない。だったら生殖器官以外に他の臓器にも目を向けてもいいんじゃないか?

 

 これからの人生でどんなに良い事があったとしても、あらゆる苦痛が存在する限り、生まれさせられて良かったとは決して思わないし、「人生は素晴らしいわ!!この刹那の瞬きを我が子にも!!!」と言わんばかりにポコポコ子どもを産む人に辟易する。その人にとって子どもを産むことは幸せであり、それを強制的に止める権利はない。しかしそれをエゴとは認めず、子どもが産まれるまでの過程(生殖細胞のときから)全てをその子どもの責任に転嫁する親は今すぐくたばれ。

 

 少なくとも周りの苦痛を、ごくわずかにでも緩和する努力だけはしたいと思っている。それを徹底的にした上で、反出生的思想を持とうと思っている。

趣味なんて所詮は一過性のものでしかない

 
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「趣味は?」と人から聞かれても答えられない。アニメ、旅行、筋トレは確かに取り組んでいることだが、他人の基準が分からないから迂闊に答えられない。下手に答えようものなら、夢や「やりたいこと」に勝手にタグ付けされてしまう可能性があるのだ。筋トレと答えればボディビルダー、料理と答えれば料理人、カードゲームと答えれば決闘者(デュエリスト)だ。「なんで趣味が夢に直結せにゃならんのや!慌てるなよ!!」と言いたくなる。

 

 

一定の基準を満たさないと趣味とは言えないって何ルールよ?

 趣味なんてものは基本的に一過性である。未来永劫続くものではないと思う。自己紹介にて僕も趣味をいくつか挙げたが、どちらかと言うとどれも習慣という側面が強いと思っている。筋トレはするが、あくまで体が鈍るのを防ぐ手段としか思っていない。ダンベルだの腹筋ローラーだの、別にそこまで関心なんて持っちゃいない。腹筋も割れるくらいにまで体酷使しとれへんっつーの。

 

 そういう人たちは例えば趣味が歯磨きだとすると、歯ブラシのデザイン・磨き心地に拘ったり、磨き方の心得とか意識しているんだろうか。「見てくださいこの真っ白い歯を!!日々の取り組みによる賜物です!」と自慢するのだろうか。趣味ぐらい個々のペースに配慮してくれてもいいと思うのだが。

 

 

永遠に続く趣味などない

 昔の僕の趣味は絵を描くことだった。しかし絵を描くと言っても、好きな漫画・アニメ作品の模写は一切せず、ただ適当にそれらの作品を参考にして、独自のオリキャラを作ったりしていた程度だ。

 

「この作者の絵柄が好きだ!」と本気で思えるようなことは決してなかった。一時期はあったかもしれないが、それでもすぐに他の作者の絵柄に飛び込んだりしては、また別のところに行ったり来たりを繰り返していただけだった。画力がないのは去ることながら、僕の絵柄もなんか…何かに強く影響を受けたような感じがほとんどなく、つまらないの一言で片付けられるお粗末な出来だった。

 

 客観的に見ると、一体何がしたいのか分からないと言いたくなるレベルだろう。しかしこれに関してだけは、実際に僕もそう思ってる。よくそんなものを趣味だと思い込んでいたなと自分でも言いたくなるぐらいだ。

 

 今では完全に捨て去った黒歴史で、代わりに旅行という新たな趣味に切り替わった。こちらはよく分からない絵描きなんかよりもずっと面白くて良い。

 

 しかしそれで旅行関係の仕事に就きたいかと言われると別にそうは思わない。あくまで旅行とは、自分自身が楽しむために行うものなので、赤の他人の旅程表なんかクソどうでもいい。

 

 

人前で趣味について話したくない

 筋トレですら趣味として始めたのは最近の話だし、食事や睡眠、歯磨きといった健康維持のための活動に昇華してしまっている。そんな僕にとって、筋トレが趣味だと思われることは、生命活動そのものが趣味と化してしまうことを意味する。…もう筋トレは趣味と呼ばなくてもいいかもしれない。

 

 英語もかつては趣味と呼んでも差し支えなかった。しかし今はもう趣味などではなくなった。かつて周りからは通訳だの英語教師だの言われたが、そのどれにもなれていないという(笑)時間を掛けに掛けた英語ですら、結局最後は根を上げて止めてしまうほどなのだ。そんな流動性の激しい趣味を、夢とか「やりたいこと」に結び付けないで欲しい。

 

 趣味が日々変遷を遂げるのは僕だけに限った話ではないと思う。人に話したときよりも、内容が大きく変わっていたりするものだ。

 

野球が趣味→プロ野球選手とか甲子園出場

裁縫が趣味→服のデザイナー

動物の飼育が趣味→獣医

 

みたいな短絡思考の人とはお付き合いしたくない。得意or単にしたいことだからやってるだけなのに、いちいち話を大きくするなって思う。

 

 子どもの頃は球技系のスポーツが趣味だったが、年寄りになって体が動かせなくなった今は囲碁や将棋が趣味になったというケースも多々あるだろう。そういう人たちに対して「わぁ、すごい!じゃあ加藤一二三さんとかご存知ですか!?来週講演会があるんですけど、将棋が好きなら聴きに行きますよね!?ね?ね?」とか相変わらず口うるさく言ってくる人も数多い。趣味だったら超ハイレベルのことをすべきみたいな固定観念をお持ちの人はマジで面倒臭い。

 

 

まとめ

 何度も言うが、趣味や好きなことというのは頻繁に変化するものだ。進学や就職、結婚や離婚など、ライフステージが変化する毎に更新していくのが普通ではないだろうか。かつて離れた趣味でも、心境の変化とかでまた似たようなものに着手するかもしれない(僕の場合はソシャゲのみ当てはまった)。しかし全く同じ趣味にずっと拘っている人を見ると、その人は執着心の塊なんじゃないだろうかと思ったりはする。

 

 最後にもう一度言うが、趣味を将来の夢に結び付ける人の心境がこれっぽっちも理解できない。まぁそういう人は、自身の趣味が夢に昇華した人が大半なんだろうけど。

大嫌いだった家族旅行


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 僕は旅行するのは好きであるが、他人と一緒に行くのはむしろ嫌いである。ペースを合わせなければならないという点で、非常に疲れてしまうからだ。

 

 他の場所を観光しようとしても、やれ「ホテルでゴロゴロしたい!」だの「タクシー高い!!徒歩じゃないと行かない!」なんて言い出す連中がいっぱいいるからだ。

 

 行く相手が悪いと言われればそれまでだが、どんなに仲が良くてもハプニングが発生すると、いとも簡単に言い争いは起こるものだ。

 

 不安な点はもちろんあるが、それ以上に1人旅の方が気楽だし小回りも効く。何かしら失敗しても、自分だけが損をするだけで周りを巻き込むことは一切ない。

 

 他人と一緒に行くとしても、相手には何も期待せず、単独でも行動できるように準備を整えておく。そしてその相手もこちらには何も期待しない。お互いに期待し合わないからこそ、複数人で旅行できるものではないだろうか。目的地が違えばとりあえずその場では別れ、後でまたどこかで合流する。完璧だ。

 

 

親の空気を読めないセリフが嫌で嫌で堪らなかった

 長い前置きはここまでにする。僕は友人とどこかに行くのは億劫だったが、それ以上に家族と旅行するのが苦痛だった。当時は自分1人じゃ行きたいところにも行けないし、完全に親の主導権に支配されるのが苦痛で仕方なかった。それに旅行に行ったときの両親の会話というのが、

 

「日本も将来、経済状況がガタガタになっとるんやろうなぁ(´-ω-)」

 

「こうして旅行できるのも今しかないんやでぇ (。-`ω´-)」

 

である。

 

 事実だけど、少なくともそれを旅行中に言うなよ。行きたくもなかったけど、どうにか楽しもうと重い腰を上げようとしていたのに、何故そう容易く僕の気力をへし折ってくるんだよ。それ以前に経済状況がガタガタになると分かっていながら、何故子どもを産むのかって話だ(一方的なエゴなんだろうけどさ…)。まぁそんな状況でも生きていけると、自身の遺伝子に相当自信があったのだろう。

 

 旅行中にも関わらず、全く空気の読めないことを喋った本人たちに悪気はない。あの人たちも、まだ子どもだから理解なんてできないだろうと高を括っていたのだろう。でも僕ははっきりと覚えている。楽しいことをしているときに水を差されるのは誰だって不快だ。せめてそういうときくらい自重することはできなかったのだろうかといつも思う。

 

 

家族との旅行嫌いに拍車を掛けたツアーサービス

 それに加えて、家族と旅行するときはツアーが多いので、ただでさえ不自由なのにそのときになるとかなり最悪である。少しヘマをしただけで他の観光客からの視線がヤバい。お客さんであろうが関係ない。ツアーに参加した以上、連帯責任を負わなければならない。ヘマをしたせいで、周りの人たちに迷惑を掛けるのだ。他人の迷惑を許容できる自分はOKというわけにはいかない。みんな頑張って休暇を作って旅行を楽しみにしていたのだ。自分のちょっとした不注意でそれを全て台無しにしてしまう可能性があるなら、僕は単独行動を選びたい。責任というプレッシャーを背負う訓練と割り切れば、ツアー旅行も案外楽しいのかもしれない。

 

 僕の家族はよくツアー旅行を選ぶので非常に困る。自由行動もあるにはあるが、何分までに〇〇集合とか、××に出発しますとか、そういうのに縛られると僕はよく疲弊する。そんな僕にとってツアー旅行とは、見えない手錠を掛けられているに等しい状態であった。

 

 ツアー旅行はバスでの移動が大半だ。例えば休憩時間に尿の調整を怠ったとしたら……結果は想像に難くない。スケジュールによっては、車内でお弁当を食べることもあるが、揺れが激しいとなかなか食べられないし、何かの拍子に中身がこぼれるから嫌である。おまけにそんな場所で飲食すると、必ずと言っていいほどお腹の調子が悪くなる。

 

 

まとめ

 今ではもう家族とは旅行に行かなくなった。と言うより、行ってもお互いに楽しめないと思ったからだろう。僕の親も、僕と同じく単独行動派なのだろう。「友人とは駄目だったけど、血を分けた我が子と一緒だったら絶対に楽しいはず…!」みたいな過度な期待をしていたに違いない。バカ過ぎるわマジで。

 

 1人で旅行するのは、始めは難しいかもしれない。しかし慣れを重ねると緊張感も次第になくなっていく。国内だったらホイホイ行けるが、外国だとやはり慣れにくい。1人だと予め決めておいた旅程に真剣に取り組めるのが良い。他人がいると、どうしてもその人に依存しがちになってしまう。おまけに1人旅をすると、自己肯定感もほんの少しアップする。余裕があればオススメ。

 

 ざっとまとめると、よろず屋ダイアリーの両親は旅行中にも関わらず、日本の経済状況の話などをする空気読めないマン。ツアー旅行が多く、僕の自由がまるでなかった。さらに記念撮影もしてくるので、あのとき両親は子どもをおもちゃとしか見てないんだろうなと思った(まぁ出産自体エゴだししゃあない( ̄σ・ ̄))。