よろず屋ダイアリー

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諦めてるようで、実は諦めてない人が多い

 人生とは諦めの連続であるというのは、最早共通認識の一つであり、生きていく上で必要不可欠な行動でもある。

 

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

 

 こちらの本によると、諦めるとは「明らかに見る」という意味で使われており、物事の本質を見極めるという行為でもある。決して諦める=怠惰というわけではない。むしろ肯定的なイメージを持たせてくれる。

 

 

 子どもでも、今まで無意識ながらに諦めたことのある人は多いだろう。「オレはイケメンでもスポーツ万能でもないしなぁ…」とか「私そんなに可愛くないし、巨乳でもないし…」など。

 

 そんなコンプレックスを抱いた僕たちは、何らかのかたちでそれを投影する。例えばゲームのアバターや、オリジナルキャラクターの考案など、現実では諦めていたものがそこで具現化される。

 

 

 容姿、能力、性格が自分にとって都合の良い存在の人を僕たちは求めている。 世界にはいわゆる完璧な人と呼ばれる存在はいない。しかし、仮にそれに近い存在がいたとして、かつ僕たちにそれを選べる権利があるのだとしたら?

 答えは最早明確である。みんな結局はそんな優れた人を選ぶ。諦めているようで、実は諦めていないのだ。

 

 現実では実現するのが極めて困難だからこそ、それを実現するための場所をなんとか用意しようと、みんな必死なんだと思う。現実では不細工な人でも、プリクラの中では美人として振る舞える。安くて美味しいレストランか、高くて美味しいレストランがあれば、前者を選ぶのは当たり前の話である。 

 

 完璧になるべく、努力してきたものの、精神的に折れてしまい挫折することとなった人でも、表面上諦めてはいるものの、無意識下では諦めていない。むしろ何らかのかたちで再びその気持ちは浮上する(親が子どもに勉強を強いて、エリートに育て上げんとするのもそれに近い)。諦めたくて諦める人はまずいないからだ。

 

 

 人間は何かを完全に諦めることはできない。表面上では諦めてるように見えても、根の部分まで諦めてはいないと思う。